文学的リハビリ日記

タイトルの通りですね。ゆるくやってみます。

京極夏彦『死ねばいいのに』書評(大嘘)

したくないです。

大体あんなエグい話を書くとなると周りから引かれるか、キモがられるんです。

 

京極夏彦さんの本の内容を話すと、大抵「よくそんな話を長々と(文庫で700ページを超えるくらいかな?)読めるね」と言われ、変人であると言われます。

 

変人、変人です。変な人です。僕はよく言われます。好きな事をやってるだけで変人です。

 

まぁ、それはいいんです。変人って事自体どうでもいい。ただ、昔から疑問を一つ抱えていました。

 

 

それは「何をしたら変人じゃないんだろう」って事です。

 

ここまで読むと結構マジメな内容そうですけど、これ全部筋肉ムキムキになってオグリみたいになって最終的にシュワちゃんになりたいって思ってる人間が書いてます。

 

佐渡にジムを開くのが僕の一番の夢です。

 

だからこれは意味なんてないです。

 

ただ頭を流れる思考を、網ですくって、型に流し込んで、アウトプットしているだけです。本当にリハビリになっているんでしょうか。

 

 

本題に戻ります。

要は変人の定義が分かれば解決するんじゃないかと思うのです。

 

へん‐じん【変人/偏人】

言動や性格に普通の人とは変わったところのある人。変わり者。   コトバンクより

 

 

ダメですね。結局「普通の人」が絡んできました。じゃあ普通の人って何やねん。

 

 

普通ってのは、要はありふれてるって事です。

一般的です。特に変わってはいない事です。

ポピュラーでノーマルな訳ね。ちょっとルー語っぽい。

 

 

でも僕からすると、変わってない人なんて居ないです。皆が皆、全部同じなんて事絶対にないじゃないですか。だから皆、どっかしらで人と違うんです。

 

結局、変人の定義ってのも、全部個人の物差しで決める訳ですね。

 

アインシュタインの言葉にこの話題を簡単に終わらせてくれる言葉があります。

 

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」

 

あと、僕は別に変人のが良いだとか、周りと一緒の方が良いだとか、そんなことを言いたいのではないです。

 

問題は、個人の物差しが違うのに、自分の物差しだけで判断を下しながら、誰かと関わる事です。

 

要はキチンと人と話そうって事です。その人に聞かないと分からない事って沢山あるのに、それを知ろうともせずレッテルを貼る。それがマジヤバイ事だと思うのです。

 

まだ「変人」というレッテルなら大丈夫です。本当にアカンことなのは「アイツはわかりやすいからな〜」って言うような事です。

 

これはもう、相手の気持ちを無視してるのと、本質的には非常に近いと思う。だから、やっぱり、キチンと人と話そうってね、そんだけ。

 

これからの大学生活のための自分への戒めと、千字以上のレポートのための練習。きつし。